・<県政に対するご意見をください>   あて先は tokoiy@atlas.plala.or.jp
このコ?ナ?では、常井洋治が、「日々の活動」、「最新の県政情報」、「身近なできごと」や「新たな感動」などについて、皆様に発信します。
また、皆様から、県政に対するご意見やご提言をいただき、常井洋治がコメントさせていただきます。
そして、常井洋治と皆様の、双方向の「県政ほっとコ?ナ?」にしたいと考えています。

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茨城県議会議員 常井洋治『県政について語ろう』


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2011/04/14
■橋本知事へ県民生活再建と安心確保へ向けて緊急要望。―がんばろう日本、いばらき、かさま!(4)(N0.379)

 (2011.4.14)
 今回の地震の正式名称は「東北地方太平洋沖地震」ですが、当初は、3通りくらいの呼称が使われました。3月17日にいばらき自民党の幹部役員会が開催され、私も政調会の筆頭副会長として出席しましたしたが、そこでも議論になりました。私は、茨城県も北茨城市はじめ大きな被害があるにも拘わらず、被災県だという報道が少ないが、千葉県の被災状況まで見れば、その地域も含めた「東日本大震災」とすべきだと述べ、以後その呼称に統一することになりました。その後、政府の統一呼称でもそうなりました。

 役員会では、その日のうちに知事への緊急要望をまとめ上げて、橋本知事に提出しました。その内容は次のとおりです。@被災者救済を第一とした医療体制、避難所生活の改善、早期復興に向けた総合的な相談窓口の設置 A激甚災害指定のもと公共土木施設等、農地等の災害復旧事業に対する予算の確保と迅速な実施 B電気・水道・通信等のライフラインの早期復旧。鉄道網、高速交通網、バス交通の完全早期復旧 

C農林水産業に対する緊急金融措置と風評被害防止 D中小零細企業に対する緊急金融措置を県信用保証協会融資として受けられるようにする最大限の措置 E食料等必要物資や暖房用灯油、ガソリン等燃料の安定的供給・流通の確保についての国や関係業界への働きかけ F福島第一原発の緊急事態の経過や分析の公表、安全対策を国に強く求めること。本県の東海第2原発の安全総点検を実施して情報を分かりやすく公表すること。農林水産物や観光への風評被害の防止措置、などです。

 その当時の、停電、計画停電への不安、水・ガソリン・灯油を求めての長い行列、原発事故そのものと風評被害の恐怖、農林・中小企業経営者や従業員の不安、そして何よりも被災された方々への緊急支援体制の必要性を、実生活の中で肌で感じた我々の皮膚感覚からの要望でした。

 特に私は、12年前の新人議員当時におきたJCO臨界事故には、特に強い関心を持ち続けてきた者として、今回も津波被害にあったとされる東海第2原発の被害状況と現状の些細な情報公開は絶対に必要だと思って要望に押し込みました。しかし、現時点でもその情報はほとんどなく不気味にさえ感じています。

 地震そのものについては、私は、6年前に、当時別会派に属していましたが、会派の勉強会で、県の災害対策強化に取り組むべきだと主張していました。当時は阪神・淡路大震災から10年目に当たる年でした。新潟中越地震の発生を受けた県内の調査でも、当時の市町村庁舎の耐震率、停電時の自家発電装置の設置率や避難場所となる公立学校施設の耐震率が低く、その脆弱性を質すべきだと思っていました。当時は、政府の中央防災会議報告で、近い将来首都圏で発生する可能性があるいわゆる首都直下地震では、本県も震度6強が想定されていました。

 また、南関東では、マグニチュード7クラスの地震が30年以内に70%の確立で起きるとされておりいつ震災が起きても不思議ではない状況だと言われていたのです。とりわけ私が、主張したかったのは、被災者の復興のカギになるのは、住宅再建だということです。家さえあれば、立ち直れると言うことを聞いていたからです。そこで、私は、何としても、地震保険の加入率を高めようとしました。当時の地震保険の加入率は全国平均で17%、本県は15%でした。

 これら防災体制強化についての質問は、先ほどの議論を経て、2005年(平成17年)第1回定例会で他の議員が行いました。地震保険を取り上げた県議会初の質問でした。その後も私は、地震保険について質問をしました。2006年3月の予算決算特別委員会では、地震保険を県税の税額控除、課税免除など税制の運用によって加入率向上の政策誘導をすべきではないかと橋本知事に質問しました。その結果、早速、同年6月の県税条例改正の中で個人県民税の損害保険料控除を組み替え、地震保険料控除を創設することになりました。県では、地震保険の加入についてのPRもその後実施してきました。2009年度末現在での加入率は、全国平均が23,0%、本県が18,7%になっています。

 今回はマグニチュ−ド9と前記の地震の想定を大幅に上回るものでしたが、地震保険で救われた人が少しでも多くなっていて良かったと思っています。「備えあれば憂いなし」と言いますが、問題点を先に見通すわれわれ議員の施策提言も然りだなとつくづく思っています。今の私には、地震保険の加入率を100%まで持って行く努力が足りなかったという深い反省と自責の念があります。
 
 写真1:自民党県連、いばらき自民党の震災対策会議
   2:橋本知事へ緊急要望書を提出
   3:給水を求める笠間市民の長い行列 

 

2011/04/12
■すばらしい助け合い。がんばる県・市職員―がんばろう日本、いばらき、かさま!(3)(N0.378)

(2011.4.12)
 私は、3月12日朝から笠間市内の被災状況と避難所を見て歩きました。停電と断水の中で、市民は、これまでにない生活を余儀なくされていました。それまでの多くの大震災や風水害などの際に映像で見なれた避難所生活や給水を受ける行列、炊き出しを受ける姿ですが、よもや自分がその主役になろうとは思っても見なかったと思いました。皆さんも良く「茨城県は災害らしい災害がなくて良いよな。だからのんびりして人間がダメなのかな」という会話をしたり聞いたことがあったのではないでしょうか。

 今回は、まさに私たちにも天災が降りかかってきたのです。500kmの範囲の規模でプレートの動きでおきる地震のメカニズムの中で、その上で暮らす我々の存在などほんとにちっぽけに見えます。地震も津波も「天災」として受け入れることしかありません。福島第一原発のトラブルによる放射性物質の拡散は、断じて天災ではなく人災ですが、この苦難の時に強烈な追い打ちをかけています。

 地震や津波で被災した地域では、避難の過程でも、避難所生活でも被災者同士がお互いに助けあい我慢しあって生き抜こうとしています。多くのボランティアが現地入りし、支援しています。日本国内はもとより海外からも救援隊の派遣や支援物資、義援金が送られています。とりわけ自衛隊、警察、消防はどれほど皆さんに安心感を与え、尽力して頂いたか、ほんとうに頭が下がる思いです。笠間市においてもたくさんのボランティアの皆さんが活動してくれました。「我々の人間社会も捨てたものではない」と心温まる思いにグッと来るものがありました。

また、私が特に感じたのは、地元の被災に対応した茨城県や笠間市の職員さんたちの姿です。震災発生以来、不眠不休で住民のために奔走する姿を間近に見ました。多くのボランティアの皆さんに付き添い十分に働いてもらうのも大きな仕事です。各自が本来の仕事ではなくても、自分の家の補修や片づけを顧みずに持ち場に着いていてくれたことでしょう。

 県職員も、災害対策本部をはじめ多くの職員が各部署で休み返上で働いてくれています。笠間市にある教育研修センターでは、福島県からの避難者約40人を受け入れていましたが、若い県職員が3交代で対応していました。彼等には良い体験にもなってくれると思いました。公務員バッシングが続いてきましたが、いざというときのために、極端に削減するばかりでなく適正に良い人材を確保しておくことも大事だと思っています。災害に強い地域づくりをすすめる基本におくべきと考えます。

 写真1:避難所で炊き出しをするボランティアの皆さん。白米が足りないと言われ、急きょ届けました。
 写真2:避難所で炊き出しに精を出すかさま市職員の皆さん。友部中学校では、JR不通で友部駅からの乗客もたくさん宿泊した。 
 写真3:県の災害対策本部を激励に。

 

2011/04/11
■県立中央病院は、災害拠点病院としてどう機能したかーがんばろう日本、いばらき、かさま!(2)

 (2011.4.11)
 県立中央病院には、3月11日現在約360人の入院患者がおりました。地震直後患者全員を屋外に避難させました。400床の本館に一部損壊が認められ、応急危険度判定士の診断結果で使用不可と判定されたため、一部帰宅をさせながら、がんセンター(100床)と2月にオープンしたばかりの救急センター(19床)の2つの建物に約300人を収容しました。

相当のぎゅう詰め状態のようでした。その後、退院や転院をすすめてピーク時には約半数まで収容人数を減らしました。3月22日には、267床が稼働できるようになり、福島県からの入院患者を11人受け入れました。中央病院の医師が、現地に向かって連れてきた患者もおります。透析センターも福島県を含む院外患者を受け入れてフル回転でした。

 3月14日までは外来診療を休診しました。救急対応は、原則として重傷・中等症(入院を必要とするもので重傷に至らないもの)の患者を受け入れましたが、手術はできない状態でした。手術を含め通常の診療ができるようになったのは、22日からでした。

 私は、3月12日の朝から笠間市内の各避難所や市の災害対策本部を回ってから、中央病院に向かいました。災害拠点病院としての中央病院がどう機能しているのか心配だったからです。ちょうど、会議室では永井院長はじめ多くの医師や看護師らが一堂に会して、入院患者をどうしたらいいか議論をしていました。地震直後から停電になり、給食施設が使えないため、患者には備蓄したレトルトのおかゆや缶詰を出していましたが、それもそう続かない、自家発電も2日くらいしか持たない、貯水槽の水も13日午後には底をつく、そういう中でどうやって行けばいいのか真剣な話し合いがされていました。

 廊下で聞いていた私は、その切羽詰まった医師たちのやりとりにまさに戦りつを感じました。命を守る医師たちスタッフの崇高な士気の高さと目の前の現実とのギャップの大きさにやるせない気持ちになりました。会議終了後に院長と話したところ、医師たちは、不眠不休で患者の対応をしているが、ほとんど食べるものもなく食事もできない状態であることを聞きました。

 病院の周りの店も停電で閉店のためスタッフの食料の調達もできていないようでした。私は何とかしたいと思い、家内や娘と一緒に炊き出しをして、届けるのが精いっぱいでした。看護師さんが「わー白いお米のご飯」と喜んでくれたのを見て、スタッフがまさに寝食を忘れて病院を守ろう、患者を守ろうとしてくれていたことに心の底から感激しました。

 私は、中央病院の機能充実をライフワークとしてきましたが、災害拠点病院として、もしもの場合に十分に県民のために活躍できることを期待してきました。大災害の時には、できたばかりのヘリポートを使ってどんどん患者を受け入れ、野戦病院のようになるイメージを持っていました。そう、説明も受けてきました。そのために、地域住民を交えてトリアージ(重症度による患者の優先度選別)の訓練もしてきました。

 救急センターもどんどん患者を受け入れて重症患者に適切な手術ができるものと思っていました。倒壊建物の下敷きになった人のクラッシュ症候群に対応するために人工透析センターも整備しました。(これは、十分に役立ちました。)トータルとして、今度の震災でも、「さすがに県立の災害拠点病院だ」といわれる働きができるものと思っていました。しかしながら、現実は、建物そのものが損傷を受けて使用が一時できなくなってしまいました。

 総合受付待合室も壁面の大理石の崩落の危険から使えなくなり臨時の受付所を設けることになりました。結果的に、入院患者や家族に迷惑や心配をかけてしまったこと、通院ができなかったこと、救急の患者には、限られた状況の中で懸命な対応をしたことは事実ですが重症患者には必ずしも十分に対応できなかったことが私としては、残念でなりませんし情けない気持ちでいっぱいでした。そうは言っても、限られた条件の中で、最大限の役割を果たしたと評価したいと思っています。

 今回のことを教訓にして、真に災害拠点病院として機能できる施設として、今回の地震規模以上を想定した免震性を持つ建物にハード面を強化しなければなりません。今回、後日、建築構造的には問題ないとされたとはいえ、災害拠点病院が壊れたり、心配しているようでは話になりません。患者や医師スタッフの食事も十分確保しなければなりません。 水や電気も然りです。その他、たくさんの事柄をもう一度見直し、名実共に「県民の安心の最後の砦としてあるべき県立の災害拠点病院」として再構築をしていかなければなりません。

 幸いに、中央病院には、すばらしい医療スタッフが背揃いしている事が改めて実感しました。永井院長の3月14日のメールにその気概が窺えます。「(手術室や機器の回復について筑波大学等の支援に感謝を述べ、職員の食事、宿泊所、ガソリン不足での相乗り通勤の現状を言いながら)福島原発へ対応した緊急被ばく医療への協力の準備を進めています。ここにきて計画停電の話です。天を仰ぎ、ことばを失います。が、未曾有の事態です。乗り切るしかないと思っています。」私は、この崇高な使命感に燃えるスタッフの皆さんとともに新たな課題に一緒になって取り組む覚悟をしました。

 【中央病院で6年ぶりの産声が】
 3月11日地震発生直後陣痛がおきた妊婦が、夕刻中央病院に来院してお産をしました。筑波大学からきたばかりの婦人科医師と小児科の医師、助産師の介助のもとで女の子が生まれました。その後、こども病院へ入院しました。大騒動の中で、中央病院で聞く6年ぶりの産声でした。私は、後日聞かされてとても嬉しくなりました。やればできるのです。是非とも、中央看護専門学校の生徒の実習だけでもできるようにしてもらいたいものです。
 
写真1・2:緊迫した会議をする永井院長たち
    3:2階の損傷箇所

 

2011/04/09
■東日本大震災のお見舞いを申し上げます。―がんばろう日本、いばらき、かさま!(1)(N0.376)

(2011.4.9)
 東日本大震災でお亡くなりになった皆さまのご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災者の皆さまにお見舞いを申し上げます。

 あの3月11日から1か月が過ぎようとしています。東北から本県、千葉県に至るまで広範囲の被災状況の映像や記事に接し続ける中で、ただただ自然の恐ろしさを痛感しております。地震、大津波に加えて福島第1原発の放射能漏れが我々の生活に大きなダメージを与えています。今でも余震が続き、不安な生活の中ですが、この1ヶ月を振り返ってみたいと思います。

 地震のあった午後2時46分は、ちょうど県議会の保健福祉委員会の最中でした。他の5つの委員会も同時に開催中でした。もう少しで3時の休憩が入るのかなと時計を見ていた頃でした。私は、当日の委員会の予算議決について、子ども手当の地方負担に反対する付帯決議を提案する趣旨説明をすることになっていたため、休憩時間にでもその原案を練ろうと考えていたときでした。

 最初の頃は、大きな地震だがしばらくすればいつものように収まるだろうと思っていましたが、揺れが続き尋常なものではないと思いました。それでも、築10年の議会議事堂だから耐震性は十分だとも思ったりしましたが、その内に揺れはどんどん大きくなりました。私は、5階の委員会室のため大きなガラス窓が割れたら大変だと思い、50人ほどの職員に大声で窓際から離れるように言いました。

職員たちが移動する頃には、天井から白い粉がどんどん落ちてきたため、天井が崩れるのではないかと自分でも身の危険を感じてテーブルの下に潜り込みました。その場所は、石川多聞委員の席だったので、石川先生も引っ張り込んで,やっと両足を広げられるくらいの狭い空間に2人で顔をすりつけるようにして、地震の止むのを待ちました。ひょっとしてこれで命も終わるのかも知れないと思ったほどでした。

 しばらくして、小康状態になってから議員は廊下に出ましたが、その頃には、潜り込む席がなかった職員は階段で避難してほとんどおりませんでした。ただ一人、女性の山口副知事だけが茫然として我々のところにおりましたので、残っていた課長を呼んで、速く災害対策本部に連れて行くように、先ずは、議長室に行くように言いました。その時点で、携帯もつながらないことも分かりました。

 階段を下りて避難する途中も、建物がどのような状態か不安な中でしたが、議員も職員も全員が議事堂前の広場に集まりました。しばらくしてから、解散することになり、私は、先ずは、関係する旧友部の幼稚園に車で向かいました。停電で信号は全滅でしたが、4時前に到着しました。認定こども園の子どもたちは、保育所、幼稚園ごとに園庭のまん中の芝生にビニールシートを敷いて先生たちと一緒に車座になって座っていました。先生が落ち着かせようとしていました。保育所は、先生が子どもを両脇に抱えてすばやく避難したようで、とにかく無事を確認でき安心しました。その後一旦平屋の教室に入れて温かくしていましたが、余震が続いたため、園庭のバスの中に避難させ、園長たちが親御さんに最後の一人をお渡ししてほっとしました。

 その後、自宅へ帰り、家内の顔を見てやっと安心しました。カセットラジオを大音量でかけて外にいた家内から、子どもたちにも地震直後に通じたメールで母の無事を伝えたと聞き、良かったと思いました。私の家では、古い母屋の屋根や壁が一部損壊し、御影石の塀も崩れていました。周辺の家も同じような状況でした。家の中は、仏壇の位牌も、神棚の中も本棚の本も全て飛び出していました。岩間街道でも多くの大谷石の塀が崩壊していましたが、下敷きになった人がいなかったのは奇跡的だった気がしました。

 結局、議会議事堂は、6つの委員会室のうち1つしか使えず、本会議場も使用不可のため、以後の本会議は、1階の大会議室で行いました。

写真1:保健福祉委員会室―散乱した書類を整理後に撮影
  2:避難後に余震が続く議事堂を見ている様子
  3:唯一使用可能な農林水産委員会室を後日改めて交替で使って、議員だけの委員会で議決をした。―子ども手当の地方負担に反対の付帯決議の趣旨を説明する。  

 

2011/01/29
■県立中央病院に救急センター、循環器センターがオープンします。(N0.375)

  (2011.1.29)
 中央病院に上記の2センターが竣工しました。一つの建物で、一階と2階に分かれます。救急センターは救急車搬送の入り口には、蘇生室や初療室、手術室、マルチスライスCT(約1億円)があり、万全の体制で患者を受け入れます。

一般病床7床、ICU6床があり、夜間救急などの救急外来患者も診察後一晩様子を見ながら泊まれるようになりました。これまでは、家族は寒い廊下で長時間待っていましたが、待合室も広く用意されました。

医師は、高山センター長を含め4名、看護師は36名が配置されます。この体制で、21年度の救急車搬送受け入れの約1、5倍の年間約5,000件の受け入れを想定しています。県央、県北地区の救急医療の中核としての期待を担い2月1日から稼働します。

循環器センターは、秋島センター長を含め常勤循環器外科医2名、循環器内科医4名、CCU6床に対応する看護師20名の体制で、4月1日からの稼働予定です。医師は、一部筑波大学の寄付講座による派遣を受けています。

急性心筋梗塞、心不全急性憎悪、致死性不整脈、大動脈瘤破裂など急性かつ重篤な病態の循環器疾患に対応できます。経皮的冠動脈形成術(PCI)、冠動脈バイパス術、血栓摘除術、人工血管置換術などの治療ができるようになります。つまりは、これまでできなかった心臓外科手術までできるようになるということです。まさに画期的なことです。

私は、初当選以来、中央病院に救命救急センターを設置したいという悲願ともいえる夢を持ち、実現を求め続けてきました。ある時は、心臓手術ができる心臓血管外科の開設を唱え、ある時は、中央病院を中心としたこの地域を日本のピッツバーク(アメリカの鉄鋼都市から高度な医療都市になった)にしたいと叫んできました。また、ある時は災害拠点病院として、ヘリポートの必要性を提唱してきました。

今回のオープンによって、私の夢の実現に大きく近づきました。救命救急センターとの違いを強いて問うたところ、極めて重傷の多発外傷や熱症(やけど)への対応が困難なくらいだと聞きました。もう一歩ですので、今後とも名実共に救命救急センターになるまで主張を続けていきたいと思っています。それにしても、政治家として夢を唱え、言い続けることがいかに大事かと言うことをしみじみと実感しています。

実現に当たっては、もちろん橋本知事の英断があったことは当然ですが、多くの方の熱意があってこそであり、あっという間に形ができあがったそのスピード感に我ながら驚くとともに深く感謝を申し上げます。立派な建物や初期の体制は、都内の大学病院と遜色がないというお墨付きを得て、心強くも思っています。ただ、医師の確保が今後の成否を握っており、救急のオンコール(待機)によって駆けつける医師の献身的な努力に頼っている実態にも適切な対処が求められます。

永井院長は、竣工式典の挨拶の中で「救急は医療の原点。目の前の困った人を助けるのが医療。高度医療とスタッフをさらに充実して、死角のない医療を実現していきたい」と述べていました。どんどん変わる中央病院に期待しています。

 写真上:竣工した2センター。右隣がヘリポート。4月頃からドクターヘリ、防災ヘリの患者を受け入れる予定。
   中:式典で挨拶する永井秀雄院長
   下:土井副院長らから説明を受ける

 

2011/01/12
■県畜産試験場跡地のセイダカアワダチソウの除草を要請しました。(N0.374)

(2011.1.12)
 同跡地は、約40haですが、うち約3haは国有地です。北側を中心に毎年セイダカアワダチソウが生い茂り、花粉が飛散して周辺の住民から苦情が寄せられていました。種子の飛散により、民地に生える被害も出ているようです。

 県有地部分は、県農林水産部が定期的に除草を実現してきました。国有地の部分は、県を通じたり、私も直接電話で要請してきましたが、水戸財務事務所の回答は、通常は外周を幅3mで除草するのが管理の原則のところ、ここは特別に10m除草している、全面除草は、予算がないのでできないとの事でした。

 その後も、県を通して笠間市にも声をかけて、事務的に強く要請しましたが、回答内容は変わりませんでした。そこで、私は、水戸財務事務所に出向いて直接お願いしてきました。
応対された統括国有財産管理官とのやりとりは、次のような内容でした。

@ 全面除草をしてもらえないか。(回答)22年度はできないが、23年度には、5月頃に全面除草できるように予算要求をしている。
A 地元笠間市や住民団体が無償で借りて管理することはできないか。(回答)無償ではできなくなってしまった。全部を有償で貸し付けることになる。笠間市からは、借りたいとの意向は、示されていない。将来的には、売却を考えていきたい。

 私は、この先も除草管理の実現を求め続けていきたいと思っています。併せて、跡地利用の観点から、県や笠間市に県有地との一体的な管理の必要性を呼びかけていきたいと思います。

写真上:国有地の看板の先は、枯れ草状態になっていて、火災などの危険もある。
  下:財務事務所での要請

 

2011/01/11
■一番で初登庁。四期目スタートです。(N0.373)

(2011.1.11)

 四期目の任期の初日は、実際は1月8日ですが、今日が初登庁の日です。議員にとって特別の日ですので、我が家では、いつもどおり赤飯を炊いて、尾頭付きの朝食です。家内が、いつの間にかスーツを新調してくれていたのには驚きました。ただ感謝のみです。長い選挙戦で身だしなみなどに気がまわらなかったので、折り目のあるズボンは久しぶりのような気がしました。

 県議会議事堂では、一番乗りで受付をしました。久しぶりの選挙を戦っての議席ですので、感慨も新たなものがありました。やはり、バッチを襟に付けてもらいながら、背筋に緊張が走りました。皆さんに約束した公約をどう実現していくか、それだけを考えていく4年間が始まりました。

写真上:新人の議員さんとあいさつをしながら、バッチの交付を受ける
  中:「武士の家計簿」の映画に出てくる絵鯛ではなく本物だが、ちょっと小振りの鯛。
  下:仕事始めは、大橋地区の東小学校近くの道路整備の現地調査。

 

2011/01/01
■四期目当選、皆さんに感謝。早速始動しました。(N0.373)

   (2011.1.1)
 明けましておめでとうございます。皆様には、輝かしい新年をご家族揃ってお迎えのことと存じます。今年が、皆様にとって、良い一年になりますようお祈りいたします。
 
 さて、昨年12月12日の県議選におきましては、14,362票という大きな得票で、四期目の当選をさせて頂きました。身に余るご支援に心から感謝申し上げます。私自身は、約一年間皆様のもとに出向き、たくさんの励ましを頂きながら、この選挙戦をたたかってまいりました。

 私にとっては、二期続けて無投票当選の後、今回は12年ぶりの選挙であり、また、笠間市合併後初めての新区割りでの選挙でもあったため、新人同様の戦いでした。なおさら、県内で唯一の現職3人で定数2人の議席を争う激戦区でもありました。新聞では、イス取りゲームとかサバイバル戦とかいわれましたが、最後まで予断を許さない状況でした。

 そういう中で、当選できたのは、ひとえに皆さまのお陰です。しばらくは、まさに夢の中にいるような感じがしました。今は、毎日一人でまるで修行僧のような心持ちで歩く中で出会った多くの皆さんの面影が思い起こされます。

 初めてお会いしたお年寄りの皆さんのなんと優しかったこと、小さい子どもを持つ若いお母さんの幸せに満ちた笑顔、若者や子どもの礼儀正しい応対ぶり、農作業や仕事中にも拘わらず、きちんと手袋や帽子、かぶった手ぬぐいを取ってていねいに握手に応じてくださった皆さんの手の感触、それら全てを忘れることはありません。皆さんの生の声に接して話を聞きながら、こういう人たちが築きあっていく社会の中で政治家としてやるべき事を再認識した日々でもありました。

 また、選挙戦を通して、ほとんどボランティアで手伝って頂いたスタッフの皆さん、「とこい洋治を頼む」と日夜を分かたず友人・知人に出向いたり声を掛け合ってくれた多くの皆さん、辻立ちに手を振ったり声をかけたりしてくれた皆さん、70回を超す街頭演説に寒い中駆けつけてくれたり家の中でじっと耳を傾けてくれた皆さん、具合が悪い中電話や手紙で激励してくれた皆さん、お一人お一人のその熱い思いに、私は、心から感激しました。

 今後4年間の任期の中で、皆様の信頼にしっかりと応えていきたいと思っております。どうぞ今後とも、ご指導とご鞭撻をお願い申し上げます。

写真中:70回を超える街頭演説で声がかれ、声を振り絞って当選お礼の弁。
  下:当選後、早速橋本知事を訪問。畜産試験場跡地に大学を誘致する会の皆さんと、医科大学の誘致を要望。

 

2010/11/30
■一緒に創ろう!!笠間市・茨城県の新時代を(N0.372)

(2010.11.30)

 皆様には、私の議会活動に対し、いつも熱いご声援を賜り、厚くお礼申し上げます。
長引く景気低迷の中で県民の不安もいっぱいです。こういう時にこそ、県民生活をしっかりと守る県政であるべきです。私は、「生活者としての県民の目線」と「納税者の視点」を大切にして、「心の通う、温かみのある、力強い県政」の実現を目指して、これからもトコトン働いてまいります。ともに、新時代を切り拓いていきましょう。

  この度の改選で、私は友部・岩間地区の皆様には四度目、笠間地区の皆様には初めての審判を頂きます。初心にかえり、「新人」・挑戦者の気概で戦い、何としても勝ち抜く覚悟です。
 あなたの力を是非とも貸して欲しいのです。引き続き、絶大なるご支援をお願い申し上げます。
 
 なお、このコーナーにいつもアクセスして頂き、ありがとうございます。公職選挙法の規制によって、選挙期間中は更新ができませんので、今期はこれが最後になります。
 何が何でも当選を果たし、引き続き皆様に私の「つぶやき」を通して、県政の情報を提供していきたいと考えていきます。

「とこい洋治必勝の集い」のお知らせ
 日時:平成22年12月2日(木) 午後6時から
 場所:パークスガーデンプレイス(旧友部グリーンビュー)0296−78−1122
  *出陣式に代えて開催します。皆様お誘い合わせのうえ、ご来場ください。
                
写真:毎日の早朝辻立ち

 

2010/09/22
■「茨城県倒産」への序曲が聞こえる(N0.371)

(2010.9.22)
 平成22年第3回定例会も今日で終わりました。今回は、県住宅供給公社の破産処理、保有土地にかかる将来負担1,890億円への対策など土地がらみの県の存亡に関わる課題が目白押しの議会のはずでした。

 しかし、全体として本当に静かなうちに終わってしまった気がしています。住宅公社は全国初の破産を選択し、全体の処理に680億円もの巨額の税金を投入する議案なのですから、県政始まって以来の大事件のはずで議会での大激論を私は期待していたのです。

 私は、議会人として自らの責任も明確にして対処すべきだと会派の議員会で述べましたが、結果的に賛同を得られませんでした。昨年の知事選の敗北が尾を引いていて、ここで議会が知事の責任を追及したら、また県民から批判を受けることになるから、とにかく黙っているべきだという意見まででる始末でした。私は、議員としての正当な意見の開陳を封殺するようなことは聞けないと反発しましたが、今議会の議決の結果はその時点で見えていたのかも知れません。

 知事選の問題と今回の問題を絡めるのは明らかに筋違いのことで、県議会が堂々と知事と論戦を交わすことこそ、県民からの負託に応える道だと私は思っています。私は、予算特別委員会での質問を希望して、真正面から知事に質問をしました。

 @ 住宅公社処理に巨額の血税を注ぎ込むことの重大性の認識はどうか。辞職にも値することだが、辞職を考えたことはあるか。―1年前に県民の信任を受けて五選をしたばかりなのでその考えはないと答弁
A そもそも何でこんなことになってしまったのか。前任知事の時代に膨大な土地を買いすぎたことが大きな要因だが、橋本知事になってからの処理に決断とスピード感が欠如していたことがもっと大きな要因だと指摘しました 

B 破産以外の選択肢があったのではないか。銀行とのトップ交渉を提案してきたのになぜやらなかったのか C 借金を返すための借金を381億円も起債するが、15年先の次世代の県民にまで負担をさせるのでなく、今の県民に痛みを受けてもらうことが必要ではないか。そのことによって事の重大性が分かってもらえるはずだし、知事は説得する勇気を持つべきだ。

D 知事の責任として、給与や退職金のカットが不十分だという指摘があるが、そこまでいわれても退職金は必要なものなのか E 県の損失補償(銀行への連帯保証のようなもの)でこんな目に遭っているが、今後は、知事や副知事の個人保証を前提とするような歯止め策が必要ではないか

F 県行政が県民に背信的なこんな馬鹿な事をしてしまったことをしっかりと検証していくべきだー以前に上月副知事はその必要はないとしていたことを翻し、橋本知事は検証を約束した。  主な質問は以上です。

 橋本知事は、先に述べた議会の心理を見透かしたかのように余裕を持って淡々と答弁していたようです。「せめてじだんだ踏んで悔し涙の一粒でも流してくれたら県民も納得するかも知れないが」と言うと「ポーズだけとっても仕方ない」と言う状況でした。

 私は、退職金のカットが不十分だなどというつもりはありません。中小企業がこんな状態になったら、社長に退職金やボーナスなど論外のことなのですから。保有土地がらみの1,890億円を今後20年かけて県民の税金で処理していく仕組みを今議会で承認したことを認識している県民はどれだけいるでしょうか。土地の値下がりが続けば、ひとたまりもなく破綻する構図なのに、県民は知らなくて良いのでしょうか。

 県民が知らないうちに、一生懸命働いて納めた税金が県行政の不始末の穴埋めに、まるでどぶに捨てるように使われてしまう恐ろしさ。トップは、わずかな給与カットで20年先までの分を責任をとったと言っている怖さ。物をまともに言わなくなってしまっている議会の大勢。今回の件では責任を分担しなかった職員の方々、いつになっても安定した職場で退職金がパーになる事などないと思っているかも知れませんが現実をもう一度見つめてください。

 この壮大な税金のムダ使いに断固として立ち向かおうとしない、もたれ合い、なれ合いの中で、不気味な静けさを感じつつ終わった今定例会ではありますが、「茨城県倒産」への序曲がかすかに聞こえてきたのは私だけでしょうか。

 私は、そのようにならないために「税金のムダ使いは許さない」一念で、納税者の県民の皆さんに実態を理解してもらえるように訴えていきたいと思っています。真の意味で県民の幸福を実現する県政を目指して。


 

 

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